日本体育博物館(東京都文京区)は12日、今年の野球殿堂入りを発表し、西武などで通算251勝を挙げた東尾修氏(59)、セ・パ両リーグで首位打者を獲得した故・江藤慎一氏、社会人の熊谷組で選手、監督として活躍した故・古田昌幸氏の3氏が選出された。野球殿堂入りは、171人になった。
昨年、当選必要数に1票足りず落選した中日の落合博満監督は、今年も1票差で選出されなかった。
野球体育博物館(東京都文京区)は12日、今年の野球殿堂入りを発表し、西武などで通算251勝を挙げた東尾修氏(59)、セ・パ両リーグで首位打者を獲得した後、社会人野球などで指導した故・江藤慎一氏、社会人の熊谷組で選手、監督として活躍した故・古田昌幸氏の3氏が選出された。野球殿堂入りは、171人になった。
競技者表彰のプレーヤー部門で選ばれた東尾氏は、切れ味のあるシュートやスライダーを武器に活躍。内角を大胆に突く強気の投球で「けんか投法」の異名もとり、通算与死球165は歴代最多。83、87年にはMVPに輝いた。
江藤氏はエキスパート部門で、昨年の青田昇氏(故人)に次いで2人目の受賞者となった。ロッテなどで強打者として活躍後、アマチュアの指導に貢献。社会人のヤオハンジャパンを実質的に指揮し、都市対抗野球にも出場した。
古田氏は特別表彰で選ばれた。立大から社会人野球へ進み、熊谷組の二塁手として活躍。監督としても手腕を発揮し、「ミスター都市対抗」とうたわれた。日本野球連盟理事も務めた。
競技者表彰のプレーヤー部門投票では、中日の落合博満監督が2年連続で当選必要数に1票足りず、落選した。
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〈ひがしお・おさむ〉 1950年、和歌山県出身。箕島高からドラフト1位で西鉄(現西武)に入団。右打者の内角を厳しく突くシュートとスライダーを武器に、75年に最多勝、83年は最多勝と最優秀防御率の2冠を獲得した。西武黄金期前半のエースとして活躍し、83、87年には最優秀選手に2度輝いた。88年限りで現役を引退するまで、通算251勝247敗23セーブ。与死球は歴代最多の165個。95年から7年間は西武の監督も務め、97、98年にリーグ優勝へ導いた。現在野球解説者。プロゴルファーの東尾理子は長女。
〈えとう・しんいち〉 37年、熊本県山鹿市出身。熊本商高から社会人を経て1959年に中日に入団。64、65年と2年連続でセ・リーグ首位打者を獲得した。69年に一度引退したが、70年にロッテで現役復帰。71年にはプロ野球史上ただ一人となる両リーグでの首位打者に輝いた。75年には太平洋(現西武)で兼任監督も務めた。76年にロッテに戻ってプレーし、現役引退。通算2057安打を記録した。青少年向けの日本野球体育学校の校長を務めたほか、社会人野球ではヤオハンジャパンを実質的に率いて97年に都市対抗野球に出場した。慶大監督の江藤省三氏は実弟。2008年死去。
〈ふるた・まさゆき〉 1933年、熊本市出身。九州学院高から立大に進み、1年から二塁手のレギュラーに定着。プロの勧誘を断って56年に社会人の熊谷組に入社し、いきなり都市対抗野球で首位打者を獲得。都市対抗には監督兼任を含めて連続13回、通算16回出場し、3度の優勝を達成した。国際大会にも数多く出場し、57年の第3回世界アマチュア野球大会では攻守に活躍して日本の優勝に貢献。現役引退後は日本野球連盟理事、同常任理事などを歴任した。99年、65歳で死去。
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〈野球殿堂〉 日本の野球界の発展に大きく貢献した人物の功績をたたえるため、1959年に創設された。選出されるには競技者表彰の2部門、特別表彰とも、有効投票数の75%以上が必要。
競技者表彰の選出は2008年から2部門に分かれた。プレーヤー部門は現役引退後5年を経過してから15年間が有資格。15年以上の取材経験を持つ野球担当記者の投票で決まる。今回は全投票数304票のうち228票が当選必要数で、東尾氏は254票。エキスパート部門は監督、コーチ、審判を対象とし、引退後6カ月を経過している人などが対象。野球殿堂入りしている人らが投票し、今回の有効投票数は42(当選必要数は32)で、江藤氏は37票獲得した。
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★東尾 修(ひがしお おさむ、1950年5月18日 - )は、元プロ野球選手(投手)・監督、野球解説者。愛称は「トンビ」(東尾の音読み)。血液型はO型。長女はプロゴルファーの東尾理子。
1970年代から80年代のパ・リーグを代表する投手。同年代の山田久志、村田兆治、鈴木啓示らと鎬を削り、ファンを沸かせた。引退後は1995年から2001年まで西武ライオンズの監督を務め、7年間でリーグを2度制し、すべてAクラスを死守した。
経歴
プロ入りまで
和歌山県有田郡吉備町(現・有田川町)出身。吉備中学校を経て、和歌山県立箕島高等学校卒業。東尾はもともと平安高校へ入学を希望していたが、その評判を聞いた箕島高校の野球部監督の尾藤公が直々に口説き落とし、1968年には甲子園初出場校のエースとして全国ベスト4の成績を残した。後に尾藤は甲子園で春3回、夏1回の優勝という実績を残したが、「この年(1968年)のチームが最強であり、優勝できなかったのは自分自身の経験不足のため」と語っている。
1968年のドラフト会議で、西鉄ライオンズから1位指名を受ける。くじ引きにより西鉄の指名順位が12番目に決まったため、この1位指名は1巡目最後の12番目の指名だった。
ドラフト前には他の球団から何らかの接触があり、中には1位指名を仄めかした球団もあったというが、西鉄からの指名は事前に何の接触も無い唐突なものだった。そのため東尾の両親は「在京・在阪のチームならばとにかく、(一度も訪れたことのない)九州のチームに息子を入れるわけにはいかない」として西鉄への入団に猛反対し、指名を拒否して大学へ進学することを勧めた。東尾自身も西鉄の一方的な指名に腹を立て、一時は法政大学への進学を決めかけていた。しかし、「西鉄もプロのチーム。そのプロが1位指名してくれた」と思い直し、両親を説得して西鉄に入団した。東尾は後に、「1位指名だったからこそ入団した。西鉄は1位指名によって僕のプライドを守ってくれた。1位指名でなければ西鉄に入団しなかった」と語っている。
現役時代(1969-1988)
プロ入り後は、リーグの並み居る投手陣のレベルの高さに自信をなくし、一度は首脳陣に野手転向を申し出たこともあるという。ところが、1969年に「黒い霧事件」が発生、エースの池永正明ら主力投手が軒並み永久追放されて投手不足となり、一軍の投手としてフル回転せざるを得なくなる。投手コーチだった河村英文に才能を見込まれ、加藤初と共に連日350球から400球という投げ込みを課せられた。
東尾はロッテの木樽正明、成田文男らの投球フォームを参考に、切れ味鋭いスライダーやシュートを軸にした横の揺さぶりと、打者の内角を突く強気のピッチングスタイルを確立。死球を与えても全く動じない太々しい性格から『ケンカ投法』の異名も取った。なお東尾を指導した河村も、現役時代には内角攻めを得意としていた。そのため与死球数が多く、通算165個という日本記録を持っている。東尾は「僕がプロで生き残るためには、得意な球種を考えるとああいう投球パターンでなければいけなかった」と語っている。
黒い霧事件で戦力が激減した西鉄は、ついに身売りして太平洋クラブライオンズ〜クラウンライターライオンズとチーム名を変更するなど、常に不安定な経済状況に晒された。東尾はその低迷時代をエースとして支えた。1975年には23勝8敗で最多勝。1977年シーズンオフには読売ジャイアンツから獲得の要請があり、球団が「東尾の放出は球団の死を意味し、それは我々が経営の当事者である限りありえない」との声明を発表した。
クラウンライターは1978年限りで堤義明のコクドに売却され、1979年から西武ライオンズとなる。監督の根本陸夫はフロントの要職も兼任し選手のトレードを大量に手がけ、西鉄ライオンズ時代からの西武での生き残りは東尾と大田卓司の2人だけになった。
1982年より広岡達朗が監督に就任。広岡はチームプレーを重視した守りの野球を展開する。同年5月の試合で1塁への東尾のカバーリングが遅れたと感じた広岡はローテーションから外す姿勢を打ち出した。特に1983年には、広岡が東尾の投球に関して試合後に「八百長をやっているのではないか」とコメントしたことがスポーツ紙に報じられたことから東尾が激怒したということもあった。
チームは広岡が就任後の1982年、83年とリーグ優勝、日本一を達成。1985年にも再びリーグ優勝する。東尾はこれら3度の日本シリーズではすべてリリーフに回り、1982年には日本シリーズMVPに輝く。1983年にはリーグMVPと最優秀防御率を獲得している。
1986年には、死球を受けて激昂したリチャード・デービス(近鉄)から試合中に暴行を受け顔面を負傷したが、そのまま続投し勝利投手になっている。このデービスとの一件の後、西武以外のパ・リーグ5球団から東尾の内角攻めや死球の多さに対する批判が集中。「暴力は許せないがデービスには同情する」という声が大勢を占め、中には「喧嘩両成敗で東尾にも何らかの処分を下すべき」「あまり内角攻めがしつこい場合はボークにしろ」などという過激な意見も見られた。阪急ブレーブスの上田利治監督は東尾のデッドボールについて「あれだけコントロールのいいピッチャーなのに、狙って投げているとしか思えない」と語っていたが、これについて東尾は「内角を突いていくのはピッチャーの権利。いちいち謝っていられるか」と返している。しかし近年、テレビ番組で島田紳助に「東尾さんは、狙って投げた球(デッドボール)は何球ぐらい有りますか?」と質問されたときには、「1球もない」と返答した。
1986年の日本シリーズ対広島戦は、史上一度しかない8戦目までもつれた激闘であった。東尾は第1戦に先発し、9回裏1死まで0点に押さえながら、小早川毅彦・山本浩二に連続ホームランを浴び同点とされ、第1戦は引き分ける。この後西武は3連敗し広島に王手をかけられる。東尾は続く5戦目でも9回を投げ、自責点0のまま降板。後を受けた工藤がサヨナラヒットを打って、西武はやっと1勝目をあげる。東尾に勝ち星は付かなかったものの、この1勝が西武の日本シリーズ大逆転劇へとつながる。最終8戦目も先発登板するが、ピッチャー金石に2ラン本塁打を打たれ3回で降板。試合後「もう握力がなくなっていた」と語っている。西武はこの後逆転し優勝を飾るが、当時37歳の東尾はこのシリーズで0勝ながら3試合、21イニングを投げている。この3試合は1分け2勝で、東尾が先発した5戦目で西武が1勝目を挙げ、8戦目で西武の優勝が決まったことを考えると、1986年の日本シリーズの運命を左右する存在であったと言える。
1987年オフに暴力団絡みの麻雀賭博容疑で書類送検された。半年間の出場停止と制裁金1000万円の処分を受ける。記者会見で「メンツにヤクザがいると知っていたら加わらなかった、軽率だった」と謝罪。またこの前年、落合博満と共に日本プロ野球史上初の年俸1億円プレーヤーとなり、87年シーズンの成績から翌年度は年俸の更なる増額が予想されていたが(事件発覚前には1億1000万円の提示を保留)、事件発覚により25%減俸、最終的には年俸7500万円で契約している。
1988年限りで現役を引退。引退後は、テレビ朝日・文化放送・日刊スポーツの野球解説者を歴任した。
現在、シーズン300イニング登板・20敗戦を記録した最後の投手である。これはチーム事情により、実力の不足している若手だった頃にも主戦投手としてシーズンを通して登板せざるを得なかったためである。この時代のチームの低迷が響き、長谷川良平、梶本隆夫に次いで史上3人目となる200勝より先に200敗を記録。また200勝を達成した1984年のシーズン終了時点で通算201勝215敗と大きく負け越していた。しかし、翌1985年、17勝3敗という好成績で14の負け越しを一気に帳消し、その後の3シーズンで33勝29敗と勝ちが先行した結果、引退時には251勝247敗と無事勝ち越しを記録することとなった。なお現在のところ、200勝投手で通算成績が負け越しているのは梶本隆夫のみである。
西武ライオンズ監督(1995-2001)
1995年に西武の監督に就任。ドラフトで西口文也・高木浩之・小関竜也などを獲得し、黄金期の主軸を担ったオレステス・デストラーデを復帰させ、現役大リーガーのダリン・ジャクソンも入団させるも、オリックスに5勝21敗と大きく負け越し、1年目の成績は3位に終わった(オリックス戦以外の成績は62勝36敗6分だった)。翌1996年には広島から河田雄祐、中日から清水雅治と前原博之をトレードで獲得し、ドラフトでも高木大成・大友進・原井和也を獲得して戦力を整え、2年ぶりの優勝を目指したが、8月終了時点で借金12(47勝59敗4分=最下位)を経験するなど勝率は5割を割り、この年も3位に終わった。余談だが、西武は平成時代になってから借金13を一度も経験していない(他球団は借金13を経験している)。
1997年、読売ジャイアンツにFA移籍した清原和博の後釜としてドミンゴ・マルティネスを、ドラフトでも谷中真二・和田一浩・玉野宏昌などを獲得。この年、清原の後の4番に据わった鈴木健が奮起、このほか松井稼頭央を始めとする新鋭、また黄金期を支えた新谷博・潮崎哲也・杉山賢人・佐々木誠らベテラン、中日から移籍した金村義明などの活躍で、3年ぶりにリーグ制覇をなしとげた。翌1998年は日本ハムからトレードで西崎幸広を、またオリックスからFAで中嶋聡を獲得するなど戦力を補強、森慎二・デニー友利・竹下潤・橋本武広などの活躍でリーグ2連覇を果たすが、日本シリーズでは横浜に2勝4敗で敗退、この年も日本一となれなかった。1999年、黄金ルーキー松坂大輔の活躍で福岡ダイエーホークスと優勝争いを繰り広げるも2位に甘んじ、リーグ3連覇は成らなかった。翌2000年もダイエーと優勝争いに敗れて2位に終わり、2001年も近鉄バファローズ・ダイエーとの優勝争いに敗れ、この年限りで監督を勇退した。
東尾が監督に就任した当時の西武は、黄金期の主力選手が移籍したり衰えが顕著になるなどして、戦力の低下が著しかったが、東尾は投手陣に関しては松坂大輔・西口文也・石井貴・豊田清の「先発4本柱」や、中継ぎ・抑えの森慎二などを育成し世代交代に成功。また、西武黄金時代にはリリーフだった潮崎哲也を先発に転向させたり、日本ハムファイターズから半ば戦力外の形で移籍してきた西崎幸広を抑えとして再生するなど、ベテランの起用にも手腕を発揮した。戦力になった左投手が主にワンポイントの橋本武広、土肥義弘ぐらいしかいなかったのが弱点であったが、右投手が強力だったためあまり問題にはならなかった。
野手や打撃面に関する采配については必ずしも的確だったとは言えないが、黄金期が終焉を迎え戦力面に関しては過渡期であった中で、世代交代を果たしつつAクラスを常に維持した。また、これらの奇策には、前述のように黄金期の主力野手(石毛宏典や清原和博など)が次々に退団し、俊足巧打で守備力もあるが長打力に欠ける若手選手が多く残されたというチーム事情の中で真剣に勝つことを模索した結果生み出されたものも多い。
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